2018年08月24日
前回の記事では、2018年8月22日に開催されたイベントFuturist Meetup第9回『胚培養士・法哲学者と考える生殖医療の未来』の中から、胚培養士である川口さんの講演『生殖補助医療(ART)の現状から、未来のARTを考える』についてまとめた。
今回の記事では、法哲学者である吉良先生の発表『生殖技術とその規制』についてまとめていく。法哲学は「問いかけ」を重視する学問である。生殖技術が関係すると考えられる様々な倫理的問題について、具体的な解決策を提示するというよりは、どのような観点から問題が提起されうるのか、が述べられている点について、予めご留意いただきたい。
< プロフィール >
法哲学者 吉良 貴之
法哲学専攻。東京大学法学部卒、同大学院法学政治学研究科満期退学。現在、宇都宮共和大学専任講師、ほか東京大学・立教大学等で関連する講義を担当。「法」と「時間」が関わる問題に関心があり、地球環境問題から生殖倫理まで、様々な形での「世代間の正義」、そしてその基盤としての科学技術の社会的あり方を考えている。
個人ページ: http://jj57010.web.fc2.com/
Twitter: https://twitter.com/tkira26
吉良:
まず、この問題を議論するための前提として、生殖技術のどの段階を問題にするのかについて考える必要があります。技術が関わる倫理や法規制を考える際には、その技術が過渡期の状態のものであるのか、理想的な状態のものであるのかの区別が重要になります。発展途中の技術の倫理や法規制を考える場合は、技術には不確実な部分があることを前提とし、それに応じて安全と言えるラインを定め、そのラインを遵守させる形での規制が考えられます。考え方の例としては、1990年代頃に欧米を中心に取り入れられてきた「予防原則」があります。一方、理想的な状態にある技術を想定して倫理や法規制について考える場合は、技術的なリスクというより、さらに原理的な問題に取り組むことができます。ただ生殖医療の場合は、過渡期の技術的な問題と、原理的な問題が必ずしも分けられずに考えられていることが多い印象を受けています。もちろん、分けにくい場合が多いことは確かですので慎重になる必要はありますが、ひとまず以上の区別をしてみると見通しがよくなるかもしれません。
吉良:
生殖技術の倫理・法規制について、他の倫理・法規制との違いは何かといった比較も非常に重要だと考えています。2つの例を挙げてみましょう。
吉良:
最初の例は「生殖」場面ゆえの難しさはどこにあるのかといったものです。生まれる前の生殖医療と、生まれた後の「教育」で何か違うでしょうか。これは遺伝子レベルでのスクリーニングを行うのが当たり前になっている状態が前提となりますが、親の財政状態が原因で子の能力に差が付く可能性が生じるといった点のみを取り出せば、生まれた後で行う「教育」との違いは必ずしもはっきりしないはずです。もしかしたら過度の遺伝決定論に陥っていないか、といったことも考える必要があります。
吉良:
次の例は、「医療」場面ゆえの難しさはどこにあるのかといったものです。たとえば100が健康という状態であると考えたとき、60や70まで落ち込んでしまった状態を100へと近づける「治療」を医療の典型的な場面と考えてみましょう(同じ状態をどう評価するかも人によって異なるので、これはあくまでごく単純な場面だと思ってください)。その場合、出生前スクリーニングや遺伝子改良による子供の選別は、100の状態の物を120へと押し上げるエンハンスメント(増強)に当たり、「治療」とは言いにくくなります。医療には公的な資源が大量に注入されますが、そこで「治療」でないものに公金を使っていいのかどうか、という問題も起こるわけですね。
吉良:
また、上の2例に加えて、家族や親子関係、社会というものの枠組みが変化し続けていることにも着目したいと考えています。家族は「社会」の最小単位といえますが、民法などの法律でその「モデル」が示されるという点で、単に各自で自由に家族を築けばよいというだけでなく、つねに公共的な問題となるのです。家族の形についてはここ数年、様々な形で再定義を余儀なくされている状態が続いています。
吉良:
「家族」のあり方は常に公的な関心事であり続けています。それは、①家族が社会秩序を構成する最小の単位として、②「性」と「血統」の秩序として、③人口再生産の効率的なユニットとして、そして④親密な関係やアイデンティティ形成の場として、重要なものであり続けたからです。そんな「家族」について「法」は標準的な「モデル」を示すだけでなく、積極的にその多様性を認めるように先導する場合もあります。例えば、2022年に実施される成人年齢の引き下げは、家族の形を間違いなく変化させていくでしょう。また、2003年制定の性同一性障害者特例法が、新たな家族の形を「法的に」作り出してきたこともお分かりいただけると思います。このように新しい「法」が「家族」の在り方を変化させることも、新しい「家族」の在り方が法によってもたらされることも、どちらも起こりうるわけです。
吉良:
では、そのように生じてくる「新しい家族」をめぐる倫理について、どのような議論が考えられるでしょうか。「新しい家族」に付随して生じうる問題について考えていきます。ここから先の議論を進めていくための前提としては、生殖医療に関わる種々の技術が発達した理想的な状態にある生殖医療を想定しています。理想的な状態にある生殖医療とは、具体的には出生前診断により特定の遺伝的性質を持つ持たないの判別ができ、親が子供の遺伝的な形質について自由に手を加えることができる程度の技術が存在しているものとします。
吉良:
この場合、生殖医療に対して公的な支援をするべきでしょうか。生殖医療の技術がこのようなステージに到達した場合、生殖医療は「治療」であると言えるでしょうか。エンハンスメントであると考えた場合、エンハンスメントに公的な資材を注ぎ込むのは、格差の拡大や差別の助長を公的に推し進めることになり得ます。ここで生じうる格差には、遺伝的な改良操作を加えるのが当たり前になった年代層とまだそれが一般的でなかった年代層との間の世代間格差、選択的に遺伝子改良を加えなかった層と加えた層との格差、特定の遺伝子疾患をスクリーニング作業によって除く場合は既に産まれているその特定遺伝疾患を持つ人の立場がどうなるのかなど、様々な例が挙げられます。
吉良:
このような話をするとき、「優生学」「優生主義」という言葉を思い浮かべ、危険に思われる方も多いことでしょう。国家が優生学的な政策を取って、遺伝的選別を加えることは、ナチスの行ったユダヤ人への迫害や日本が行なっていたハンセン病患者への断種などの例からも決して許されるべきではありません。しかし、国家が公的に・抑圧的に行うのではなく、親の「自己決定」であればどうでしょうか。親が子供の幸せを望むのは自然なことですが、では特定の遺伝子疾患を持たない子供を望み、出生前診断を行うことは果たして非難されるべきでしょうか。ここに既存の「教育」との差異は存在するでしょうか。昨今の「リベラル優生主義」と呼ばれる思想は、このような自己決定を重視する自由主義と、従来からの優生主義への懸念の緊張関係を明るみに出しています。
吉良:
次に提起したい問題は、親は「望ましい子供」を持つ権利を有しているのかどうかについてです。たとえばアメリカで実際にあった例ですが、先天的に耳の聞こえないカップルが子供を持ちたいと考えた際に、耳が聞こえないからこそ美しい世界に生きることができていると考えているので、耳が聞こえない子供が欲しいと望んだ場合にその主張は認められるべきでしょうか。これは子供の側の権利はどうなのか、という視点が必要ですが、まだ生まれていない子の権利を考えることは原理的な難問です。
吉良:
これは極端な例でしたが、親は様々な形で、生まれてくる子供のあり方を望みます。もちろん、望み通りにならないことのほうが現実には多いでしょうが、それはそれで「運命」として愛を強めることにもなります。さて、生殖技術の進歩はこのような親子愛に変化をもたらすでしょうか。遺伝子操作によって特定の望ましい「属性」が用意に得られるようになることは、いわば子供を「他の誰かも持っている」スペックで評価することにつながります。そこでは愛が生じるのに必要な「かけがえのなさ」が失われてしまうのか、それともそれに応じた愛の形が可能なのか。これは特に「自己決定」する親の側が真剣に考えておくべきことでしょう。
吉良:
最後に、現状の技術的な不確実性を多く含んだ生殖医療に対して法はどのように関わっていくべきかについて問題提起を行なっていきます。このように、解決するために科学だけでなく、社会からの視点も必要な問いは「トランス・サイエンス」と呼ばれています。
吉良:
技術的な不確実性を伴う科学技術について法規制を行う際には、どこからが危険で、どこまでは安全かの線引きを行う必要があります。安全の線引きを行うためには、過去の事例を参考にどの程度のリスクを伴うのかについて議論されます。生殖医療技術については生命や人間の尊厳に関わる問題であり、また取り返しのつかない結果にもなりえますので、リスクを広めに判断するべきという立場が穏当でしょう。しかし、それもあまりにやり過ぎてしまうと技術発展へのイノヴェーションを阻害することにもなってしまいます。規制を考えるにあたっては、危険だから抑えつけるというだけでなく、その可能性を望ましい形で伸ばしていくことも必要です。PromotionとRegulationをどのように調和させるのか、ということが大きな問題になると考えています。
吉良:
規制を行う場合、「どのような」という内容を考えることももちろん重要ですが、価値観の対立が深刻な問題ではそう簡単にはいきません。そこでは「誰が・どのように」という手続き面を考えることも大切です。たとえば立法、司法、行政、専門家団体、一般市民のどこがルールを作るのか、といったことです。生殖医療については現状、日本産婦人科学会や日本生殖医学会などの専門家団体によって作られるガイドラインが大きな役割を果たしています。これは国家による「上からの」規制でなく、現場の声を尊重しているという点でよい面もあります(このような中間的な規制のあり方を「ソフトロー」などといいます)。ただ、これも問題がないわけではありません。このような規制は、専門家の声を尊重するあまり、民主的な透明性には欠けている面があります。民主的な「対話」を取り入れた規制を作るためにはどのような方法が考えられるでしょうか。
吉良:
最後に、国内のみで技術を規制する取り組みには限界がある点についても触れておきましょう。技術は当然のことながらグローバルに展開します。日本では規制が厳しい卵子や精子の提供も、他の国では特に規制もなく行うことができることがあります。また、日本では実質的に禁止されている代理母出産も、他国で行うことができた時期もありました。このような問題に対処するためには、国内的規制だけでなく、グローバルなレベルでの規制を考えていく必要があります。また、「事前」規制的発想だけではなく、技術は必ず想定の先を行くという事実を受け止め、「事後」規制的発想も意識していくべきでしょう。
吉良:
今回は普段「倫理的に考えていく必要がある」の一言でまとめられることが多い倫理について、法哲学者の視点から考えられる様々な問題を提示しました。私自身は「リバタリアニズム(自由至上主義)」という立場をとっており、今回の多くの問題についても、人・物・情報の移動の徹底した自由化とグローバリゼーションがそれを解決していくと考えています。ただそれは私の個人的な立場ですので、今回は特に強く主張してはおりません。すぐに答えを出そうとするのではなく、「こんな問題がある」というのをできるだけたくさん出していくことによって、見方を広げていくことが大切だろうと思います。今回はその材料を少しでも提供できたならば幸いです。
8/22に開催されたFuturist Meetup第9回『胚培養士・法哲学者と考える生殖医療の未来』について当日の内容を前編・後編の2回に分け、若干の補足を交えた上でまとめた。当日は、2名の発表の後で、生殖医療に関わる技術や規制の現在と未来について、実際に現場で働く胚培養士と法哲学者がその利用者になる可能性を有する一般の人を交えて議論する場が持たれた。
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